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時代の変化とともに、こころの病に対する認識は変化しつつあります。しかし、実際に患うご本人やともに暮らすご家族の苦しさや辛さはそう変わったりしません。どんな理屈や倫理感や常識があろうが、すべてを投げ出したいのは一度や二度ではないでしょう。
我が存在を、あるいは我が子やパートナーの存在を本当に投げ出したい、その川の渡し船に乗ってしまうその前に、ここにちょっと立ち寄ってほしいと、「先人」たちが開設したお茶屋さんです。

パーソナリティ障害 2023.09.10

私の中の大人と子ども

 公園や外にいる幼児が優しくされてる様子を目の当たりにすると、“子供はいいな、無償で愛が注がれて泣けばかまってもらえて抱っこされて・・・”とか思ってしまう。自分にはもうそれが叶わないのなら、死んでもいいかな、とか思ってしまうことが増えた。現在交際中の彼は子供がほしいらしく、彼が子供をかまっている姿を想像すると死にたくなる。その気持ちは、自分もたくさん構ってもらえたら良くなると思っている。そこで彼とは「5分だけ抱っこしてくれるルール」を決めたけど、物足りず、最近「もっと!」と求めてしまう。こんなふうに、彼に迷惑もかけてしまっているから、いつかこんな自分は呆れられて嫌がられて捨てられると思ってしまう。それが不安で不安で仕方ない。
 自分でできること、ぬいぐるみを抱きしめる、音楽を聞く、日記をつけて、原因を明確にする努力はしているが、これは解決というより対処。原因から対処を学び治す方向に持っていくことが、自分にはまだできていない。自分は本当に見た目だけ大人で中身が子供。でも、全部を彼に押し付けたり、心の中を話せばいいわけではないのがわかっているから辛い。心が大人になるのはとても難しくて困っている。



摂食障害 2023.08.10

何のために

私は母が大嫌いだ。
私が小さい頃から嫌いだ。よく怒り、厳しい。ピアノの練習を頑張ってしていた時でも、母にそう思われなければ「もっと心を込めて弾け」と怒鳴られた。私がいけないのだがそれは私の自己肯定感まで下げてきた。
私が大人になった今も母の厳しさは変わらない。ただ私は、母の教えは必ずしも常に正しいとは限らないと気づき始めた。しかし、母の考えと違う考えを言えば叱られる。ごめんなさい、と言い、常に母の機嫌を伺う。
母との会話で私が言う「ありがとう」「美味しいよ」の半分以上は母を喜ばせるために言う、思ってもいないものだ。母は嬉しそうに「ありがとう」という。
母は自分ができていないことを人に強要してくる。伝えたいことがあるときは「人には優しく」と。母が誰よりもできていない。他にも沢山ある。

私はなんのために生きているのか。
殺したいほど嫌いな、見るだけでイライラする母の機嫌とりのために生きているように感じる。常に気を張り、母に意識を向ける。
しかしたまに、我慢できずポロッと本音が出てしまう。母から「一言多いね」とチクリと言われ、また叱られる。また謝る。
こんな生き方に元気や健康など不必要である。生きていたくもない。母は知らないが病気の症状も増えた。
母の寿命を待つのも気が遠く、人殺しになるのも嫌なので自分が死んで楽になりたいと思っている。
親友と会う予定だけがそれを食い止めてくれている。

パーソナリティ障害 2023.07.10

幸せへの願い

私はよく、何もかも投げ捨てたくなる大きな波が押し寄せてくる時がある。
生きているだけで精一杯なのになぜ、人として生きていけるように努力しているのに、なぜ。
他の人たちだって大なり小なり辛いことはあるだろう。でも今の自分が辛くて苦しくて、もう訳が分からなくなってるんだ。だからといって誰かに迷惑をかけるのも嫌なんだ。1人で静かに消えてなくなりたいんだ。私の苦しみは私のものだし、いつかじゃなくて今救われたいんだ。

布団の上で固く丸まりながら泣いて、消えることばかり考えていると、今まで沢山一緒に私と笑ってくれた友達の事がよぎる。私は前に自殺未遂をした時、誰にも何も言わなかった。そんな余裕が本当にないから人は静かに死んでしまうんだということ、を一度やったからよく分かっている。
だから思い出すようにしている。

私が亡くなったら悲しんでくれる人のことを。私が逆にその友人が居なくなってしまったら、どれほど辛いかを。

その友人達は私がどれだけの苦しみの中生きているのかをよく知っていてくれてる。だからこそ私に生きていてほしいと願ってくれる。私が本当に幸せになって笑ってくれるのを待ってくれている。

だから私も皆と笑っていたい。みんなに笑っていてほしい。だから仕方ないけど生きていくんだ、今度は何をしてみんなで笑おうか、考えて。



家族 2023.6.21

「居た」こと「居る」こと

「遠いから大変かもしれんけんど、ここにちょくちょく会いに来られたらええね」。納骨を終えて住職にそう声を掛けられた。自宅に戻ると、生前の体格からすればごく一部しか収まっていない小さな骨壺に形を変え、長く長く、約7か月にわたって帰省する私を出迎えてくれた父の「居た」場所は、当然もう空っぽだった。
奇しくもこの日は、不遇の死を遂げたある人の命日でもあった。本人の生前の希望で、その人の母は彼女の姿や形の証を全く残さない弔いの仕方を選択した。6年経過する今夏、母が「あの日」のことを初めて綴った。他の誰もがその話題を出さないという家族関係では、「あの日」の、そしてそれまでの様々な出来事への悲しみや後悔や無念さに苛まれた思いを、母は全て封印するしかなかったのだろう。ただし、もし「居た」証があったなら、母は亡き我が子と対話しただろうか。しかし「居た」人とは、その先を一緒に歩んでいく関係は望めない。「居る」人でなければ、どんなに茨の道であろうとも、いつか何かの変化を望めるかもしれない人間関係をもう築けないことは、実はこんなに当たり前のことだった。
亡くなっても魂は残ると言われても、実際にはそう簡単に割り切れない。「居た」ことはどれだけ大事か、「居る」ことはそれよりももっと大事か。今一度、見直してみたい。

摂食障害 2023.05.04

『もはや共倒れ』

反吐が出る。そんな言葉が出てくる程、今私は限界に達している。精神も肉体も蝕まれている。寛解したはずの摂食障害の症状もぶり返しており、進退両難の局面にある。
原因は、精神疾患を持つ母親との関係性にある。母親とは物理的に距離を取り、一時は親子関係も安定しているかに見えた。が、しかしコロナ禍のストレスにより、母親は水中毒となり、その結果2度死にかけたのだ。
以来、私は2度あることは3度あると怯え、身を削り母親の電話やLINEに付き合うようになった。延々と続く彼女の不平不満に、心の中では悪態をついているというのに。
頭では彼女と距離を置いた方が良いと、そして親身になる必要もないのだとわかっていても、どうしても不安になる。私が距離を置くことで彼女が水を多飲し、死に至ってしまったらと、最悪のストーリーが浮かぶのだ。そして、私が倒れたら彼女はどうなる……?と、行く末を案じてしまう。憎んでるはずなのに、見捨てることがなかなか出来ない。
このままでは私がダメになる。発狂しそうだ。
2つの心が絶えず入り混じる。だが、これ以上の共依存になることだけは回避したい。何せ一筋縄でいかないのが私たち母子だ。こんなはずではなかったのに……この苦難、いや厄難?をどうにか切り抜けるしかないのだろう。

発達障害 2023.04.09

『生きるための許可証』

「許可証」がない、だから許されない。
その思い込みに囚われる時期がある。許可証はチケット制で、私が何かをするときに千切って渡さないといけないものだ。電車に乗る、買い物をする家に帰る座る立つ。チケットを一枚消費しないと、絶対に許可は下りない。許可証が尽きたら排斥される。許可証がない私は許されない。罰せられるべきであることを隠せなくなる。生きてるだけで罪状はどんどん重くなっていく。
最近は床や廊下で眠っていた。昨日、禁忌を犯してゴミを出した。頭の中で必死に謝りながら、こそこそゴミを出して逃げるように部屋へ帰った。外からゴミ収集車の、のどかな音楽がした。罪悪感で聴いていられず、イヤホンをして海外ドラマを流した。殺人鬼が理不尽な理由で人を殺めていくのを、涙目で追った。
許可証は「自信」と言い換えることもできる。「権利」「自由」「自己肯定感」「なんとかなるだろうという気持ち」どれでもいい。誰もが獲得してきたそれを、私は外側から得ないと、自分だけでは生みだせない。
先日、知人に頼んで「大丈夫」とカードに書いてもらった。名刺サイズで、スマホのケースに入れて持ち歩いている。自分の罪状に潰されそうになったらスマホを開く。私は生きていていいのか?名刺サイズの御守りは、今日も大丈夫とだけ言ってくれる。

摂食障害 2023.03.11

『だめな夜』

もうだめだ、と思った。どうしたらいいかわからない。だめなことだけはわかるのに、ではどうしたらいいか、何がだめなのか何もわからなくて、とにかくだめだった。
主治医から助言をもらったばかりだった。順番をつけること。1番、2番……5番くらいまで浮かんでしまうだろうけど、1番と2番に集中してみること。1番を終えたら2番が自動的に1番になるか、あるいはまたそこで順番を考え直しても良いとのことだった。
1番は死なないこと。どうしてかはわからないが、とにかく死んではいけないことだけは徹底して叩き込まれていた。どうしてかはわからないが、今は死なないことにした。
1番が決まったので、改めて順番を決める。寝ること。もう一度シャワーを浴びる。ヘルプを出す。SNSで叫んでしまう。やっぱり死ぬ。
だめな気分のまま、どうにか並べる。寝ることは無理そうだ、シャワーもこんな深夜にはできない。SNSとやっぱり死ぬの二つは嫌な予感があるので避けたい。ヘルプを出すことにした。平日深夜に、ボロボロのメールを送った。
「何もしなくていいから休みなさい」
1番をもらえた。やっと、ベッドに辿り着けた。休むってこれでいいのかな、だめな気がするな、でもどうしたらいいかだけはもらえたから今は何もしないで、休む。泣き疲れてなんとか眠れた。

パーソナリティ障害 2023.01.10

心の傷を癒す時

希死念慮が続いている。しかし今のわたしの感情ではない。幼き頃のわたしの希死念慮を今のわたしが感じている。守られたかった過去の傷ついた小さな「わたし」がまだ傷ついたままの状態で心の隅にいる。
それを振り払うかのように、施設に行き作業をしている。家で希死念慮に悶えていたときに場所を変えようと普段通りを装って施設に駆け込んだら楽になった。人々の中に紛れていると、自然と希死念慮を横に置いておける。希死念慮に押し潰されないように、作業して目の前のことをコツコツとやり遂げる。おのずと活動量も増えて、人と関わりながらやれることが増えてきた。
昔の自分を癒すために、何ができるだろうか?バラバラになったわたしの中にいる小さな傷ついたままの「わたし」に、今の「わたし」は何ができるだろうか?できることなら抱きしめてあげたい。「大丈夫だよ」って言ってあげたい。
ボランティア先で自分が精神障害を抱えていると伝えたときに、他のボランティアさんに「社会参加は大切だね」と言われた言葉が胸に刺さった。
わたしにとって必要なことは孤軍奮闘することではなく、社会の中で人と関わりながら成長していくことだ。そして過去と向き合い、小さな「わたし」の心の傷を癒してあげられたらと思う。



家族 2022.12.10

2022年も終わろうとしている。
今年も多くの著名人が亡くなった。安部元首相、エリザベス女王、アントニオ猪木などのニュースを見るたびに、どんな人にも死は訪れるのだと実感した。
そして私は10月に最愛の母を亡くした。
亡くなる3週間前に母が入居していた施設で、これからは回復の見込みはないので痛みをとる以外の治療はしないという「看取り」の書類にサインをした。
施設から帰る駅までの道は、涙で前が見えなかった。どうしようもないとわかっていても、命の選択をしてしまったのではないのかという罪の意識にも苦しんだ。
母の死から色々なことを教えられた。それはこれから先もずっと私の心の中で生き続けるだろう。
その一か月後、娘に新たな命が誕生した。エネルギーに満ち溢れた元気な女の子。
これからどんな人生を歩んでいくのだろうか。とにかく元気でたくましく幾多の荒波を乗り越えていって欲しい。
母から孫へと命のバトンが繋がった。喜びと悲しみはいつでも隣り合わせにあって、生まれては消えていくもの。
だからこそ、恐れることなく、今をしっかりと生きなければならないと思う。
2022年は私にとって忘れられない年になった。

摂食障害 2022.10.10

生きていくために

「具合が悪くなったら診察予約を臨時で入れて、薬と生活の見直しをしましょう」
主治医はそう話す。難しい。まず休診日ではない日を待ち、朝起きて予約の電話を入れて、支度をして外を歩いて電車やバスを乗り継いで、予約時刻までに診察室へ辿り着く。状態を伝え、またバス電車に乗って薬局に寄り、家へ帰る。無理だ。具合が悪いのに、工程が多すぎる。

実家に連絡するしかない。自家用車での送迎を頼む必要がある。どうしても生きなければならない、だからどうしても診察を受けなければもたない。その一心で老境の母に電話する。

様々なことを思い出す。小学生のとき、信頼していた担任に「毎晩、このまま目が覚めないといいなぁと思いながら眠ってる」と話したら叱られた。「自分が何を言っているのかわかってるのか、それは死にたいって言ってるようなもんだぞ」その通りです正しく伝わってますよとは言えなくて、困惑しながらも謝った。本音を言えば叱られるのだと思った。

以前「自分にとって『死にたい』は『生きたい』だった」と話してくれた人がいた。大事な告白だなと思いながらも、私は頷けなかった。私にとっては『死にたい』は『死にたい』だった。ほかの意味はなかった。
来週も母に電話すると思う。叱られてもいいから、主治医に本音を伝えにいくために。



摂食障害 2022.9.10

どうしても死にたくない

拒食症になりたての私を支えてくれた大恩人がいる。彼女が亡くなられたとき、私は15歳だった。彼女の年齢を越えてしまう年のお墓参りで「本当に良いんでしょうか」と内心で尋ねたことを憶えている。

今でもご遺族と電話で話したりする。母は当時、摂食障害の子を持つ親の集まる家族会で一緒だった仲間たちと連れだって、ご遺族に会っては話をするという。近況報告に混じって、故人の思い出話が出る。私の話も出るらしい。「あの子は元気?」と聞かれたとき母が「うちの子は元気よ」と答えられる生活を維持することが私の目標にもなっている。

リフォームした家は継いでくれる子がいない。墓の管理は誰がするか。遺品はどうするか、晩年は親に何も話さなくなっていたあの子が何を大事にしていたかさえ、もうわからない。そんな話も聞く。

亡くなったあとはせめて楽になっていてほしい、と願う一方で、美談にはできないよな、とも思う。できないし、したくない。死は綺麗じゃない。

もう死ぬか、と判断しかけるとき、いつも思い出す。この部屋が好きなこと。愛した本が遺品と呼ばれる日。まだ誰にも話してない。この本のどこが好きか。今なんでつらいか。私は死にたいけれど、友達に喪服なんて着させたくない。
せめて、明日話してからでも遅くない。今日も、施設の開所時刻を待っている。



家族 2022.8.10

我が子を失くすということ

娘がこの世を去って5年が過ぎた。
5年経てば何とか乗り越えられるのでは…と思っていた。
でも、また今年もその日が近づいてくるうちに、じわじわと何とも言えない重くて暗いものに押しつぶされそうになっている。あの日の朝の空気感や光景がフラッシュバックして涙が溢れてくる。

以前のように悲しみが頭から離れないということはなくなったが、戻ってくる時の波は高く深い。
娘の表情や仕草、声や体温、髪の感触などが懐かしく苦しい。
生まれる前の期待や不安、生まれた日の光景、子供のころの無邪気な笑顔や泣き顔、楽しく過ごした日々を思い出すことも多い。

我が子を失くすということの悲しみに終わりはないのだろう。



家族 2022.7.10

悲しみのプロセス

娘が突然この世を去って間もなく5年になる。

悲しみを乗り越えるには、①ショック②喪失の記憶③引きこもり④癒し⑤再生 という5つのプロセスがあるという。
私の場合、①②③は順番どおりではなく、しばらくの間行ったり来たりしていた。
毎日突然襲ってくる悲しみや、ころころと変わる感情の動きのために苦しみ、様々なことがフラッシュバックして電車の中で突然涙が止まらなくなったり、何日も眠れない夜を過ごしたりした。
いつも喉に大きな塊がつかえていて声が出にくく、気分の落ち込み、胃痛といった身体的苦痛も大きかった。

「あんな事を言ったのがいけなかったのでは…」「あの時こうしていたら…」「私のせいで…」などといった思いが次々と頭に浮かび、常に罪悪感が付きまとっていて悩んでいた時に、話を聞いてくれたある先生からの「誰も悪くないんだよ」という一言が救いだった。
ここ1年はようやく癒しから再生へ進んでいるように感じる。
悲しみが頭から離れないということは無くなり、戻ってきても短期間で終わるようになってきた。
昨年、思い切って家のリフォームをしてかなりのものを捨て、一から出直そうと決めた。

これからは、もっと自分を生きていこうと思う。



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