希望の声
眠れない夜がきた。
逃げたい。消えたい。朝が来るのが怖い。
朝陽が昇り鳥が鳴く。あぁ、また今日も朝が来た。
朝陽を見て今日も朝が来てしまったと涙が零れる。
鬱病の私の朝は涙が零れることから一日が始まる。
いつもの電車。ホームに溢れかえる人々。
まもなく○番線に列車が参りますご注意ください。
ねぇもういいかな…楽になってもいいよね?と自分の心に問いかける。
いいよ。と聴こえた気がした。
ふぁと足が電車に吸い込まれそうになった。
次の瞬間確かに聴こえたんだ。
生きたい!!!という心の叫びが。
電車の物凄い汽笛音で我に返る。
全身ががくがくと震えていた。生きている…。
大粒の涙が頬を伝い溢れて止まらない。
「おかえり」母の優しい声に笑顔が零れる。
今夜が眠れなくて心に土砂降りの雨が降っているあなたへ。
私はあなたの心の傘になり背中をそっと擦ります。
いつか必ずくる。朝陽が綺麗と涙を零す日が…。
一緒に朝陽をみませんか?
200mlが5リットルになりました
ある時、旅行に行く許可を得るため、病院での体重測定前に水を飲んで体重を増やしたことから悪化は始まりました。それから体重を減らしても水を飲めばバレない、と考えるようになった私はどんどん体重を減らし、病院に向かいながら飲む水の量もどんどん増えていきました。
増える過活動、減る食べる量。親や病院の先生に対して体重を誤魔化していること、食べていないのに食べていると嘘をつくことは辛いものでしたが自力では体重を増やすことはできませんでした。
そんなある日、いつも通り病院で採血をしたら肝臓の数値がいつもよりも桁違いに悪く、体重どうこうではなく入院と言われました。2回目の入院のことでした。そこで初めて体重を水で増やしていたことを白状しました。
現在、症状は回復しています。それはやはり、2回目の入院の前の辛かった思い出の頃には戻りたくない、という気持ちがあるからだと思います。人に嘘をついていたことはもちろん、秋から厚手のコートとマフラーを手放せない寒さ、回らない頭、コントロールできない過活動…。痩せていることが必ずしも幸せに繋がることはないと感じました。
特集「見えてる?聞こえてる?」
幻聴とは実在しない人の声が聞こえること。統合失調症の症状とよく言われますが、他にも解離性障害や高齢者の認知症でも起こります。また脳梗塞や脳外傷などの脳に損傷を受ける病気でも生じることがあります。
しかしストレス過剰になると、誰でも起こりうるとも。それだけストレスと脳と症状は関係が深いのです。
高校生の時、いじめが原因で発症しました。この病気とは16年付き合っています。入退院も8回あります。幻聴も耳元で言われて、寝てても起こされます。「殺す」「死ね」って言われて恐怖です。その恐怖で死にたくなって、リスカ、ODは当たり前にやってました。
私は元気ないのに、幻聴は元気があってよろしいようです。
でも今回でリスカ、ODを卒業したい。
きっかけは同じ仲間に会えて、話できたことが大きいです。
同じ思いを体験していてわかってくれる人がいるだけで、私の気持ちはちょっと違います。
私はある事をきっかけに、幻聴が聞こえるようになってしまった。そのきっかけとは、誰かの悪戯による、夜中の玄関のドアのノック音、そしてドアチャイムだった。その悪質な悪戯は暫く続き、私は毎晩脅え、身構え、眠れぬ日々が続いた。
その後警察に見廻りを強化してもらった結果、その悪戯は収まったのだが、いつからか私は、眠りにつくかつかない頃おいに、ドアのノック音が耳にダイレクトに聞こえるようになってしまったのである。
その時の衝撃と恐怖心は尋常じゃなく、これは明らかに幻聴だと確信した。しかし時を経て今は、幻聴が聞こえても、自身の不調のバロメーターなのだと冷静に対処出来るようになり、症状と向き合う事の大切さを学んだ。
心を無視していたら自分が失くなった
初めての職場から誰よりも速く素晴らしい成果を上げるべく、息を止め全力疾走する勢いで自己犠牲的に働いた。無理せずマイペースな周りを攻めたり燃え尽きたり仕事は続かなかった。転職を重ねる度に環境は悪くなり身も心も削れ荒んでいった。惨めさを誤魔化し限界を超えて働く為に酒を使い始めたら、瞬く間に借金は膨れ上がり仕事に穴を開け居場所は酔いの中だけになった。
唯一のプライドだった仕事を失い孤独に耐え兼ね飲みながらAAに通ったら2年弱で断酒できたが、自分を偽れないので現実はより厳しく感じられた・・・急いでる人が恐くてバスを降りれなかったり理不尽な要求や扱いにNOが言えなかったり仕事中毒と鬱(現在重症長期化)を繰返したり。生活保護を切れず、劣等感が疼きAAにも居られなくなった。
感情と向き合う病院Prg.への参加を切っ掛けにACoAに繋がったら幼少期を思い出した。遊びもスポーツも勉強も手伝いも常に怒鳴られながら。頻繁な暴力は始まると長時間続き、恐怖と痛みを切り離すしかなかった。いつも怒りに怯え自分の存在を消したかった。
自己肯定や自尊心が無いまま既に50代半ば、必死で空回りばかりの人生は虚しく悲しい。無価値感を払拭し少しでも自分に自信を持ちたい。
悪魔の考え
私は、これまで二度、精神病院の閉鎖病棟に入院してきました。二度目の入院後、2、3日で死にたい気持ちは、収まり、約1か月と1/3で退院する事が出来たのですが、僕の根本にある、「悪魔の考え」は、一向に消えませんでした。
その考えとは、「50歳になっても結婚出来なかったら、自殺しよう」という考えです。この考えは、25歳位の時から2021年5月頃まで消える事は、ありませんでした。何故50歳になったら、自殺を考えていたかというと、50歳になってからでは、出会いも恋愛も出来ないと考えていたからです。
この考えをカウンセラーの先生、担当の精神科医に話してもこの考えは、消える事は、ありませんでした。この約10年に及ぶ「悪魔の考え」を消してくれたのは、とある女性でした。その女性は、僕の「悪魔の考え」を聞くなり一言、「怖い」と言ってくれました。
その時、ハッとしました。「これが定型の考え方なのか?!」と思いました。僕は、今まで人を自分の考えをさらけ出す事で他人を怖がらせた事は、ありませんでした。なのでその時から「自分の天命をまっとうして今を生きよう」という考えに変わり、今に至ります。僕は、人の発する「言葉」に影響を受けやすいです。だから「天命をまっとうするまで生きる」に変えられたのだと思います。
6月
6月は娘が川を渡って逝ってしまった月。
今ごろは、向こう岸で「番人」として、渡ってこようとする後輩たちを追い返しながら、可愛がっていたペット達と、自由にのんびり過ごしていることだろう。
あの日の朝は、少し蒸し暑くて雲の間から日がさしていた。その後の出来事が次から次へと頭をかすめて、今でもふとした時に鮮明に蘇ってくる。あれから4年が過ぎたが全く薄れることはなく、それどころかもっと深いところに確かな爪痕を残している。
6月になると、私の自律神経は乱れに乱れ、動悸や喉の詰まり、鬱状態に悩まされる。とにかく自分を追い込むことで何とか1日を過ごしているが、今までで一番辛いように感じる。
娘の事を知っている周りの親しい人たちも、私を気遣ってか思い出話をすることはなく、4年目のその日もいつもと変わりなく過ぎていった。
「今はただ会って話がしたい。」
恥ずかしそうに微笑む遺影の横に、ピンクの紫陽花を飾った。
自傷しても何もいいことないよ
私の左腕と手首はリスカ痕だらけで半袖も可愛い服も着れない。分かっていても止められなかった。切るとスッキリするし、周りの大人に心配してもらえる。私は言葉にして助けてと言えず、リスカは唯一の助けを求める手段だった。児相でも虐待がひどくないから、と最初は助けてもらえず、リスカして初めて辛さを理解して同情された。しかし、もっとひどく切らないと同情してもらえないと思い、レッグカット、OD、首吊りとエスカレートしついに入院。
入院はとても辛くて、夜中にシャーペンで腕を傷つけて看護師さんに見つかり保護室に。持ち込めるのは身体だけの何もない辛い部屋に2週間近く居て、その後は大部屋に移り友達もでき、「もう自傷はしない」と1か月で退院した。でも今、2回目の入院中。自傷は抑えられず、今回は保護室から17日間いた。
周りの多くの人の信頼を失い、ひどく後悔をした。一瞬の快感の為にした自傷で、こんなにも惨めで胸が苦しいならもうしたくないって思った。今回は前回のように早く帰れず、最近ようやく退院に向けて動き出しているけれど、ドクターや家族の信用を失い、取り戻せても当然かなりの時間がかかる。
だから自傷を止める方法や対策を考えた。私はパニックなので事前に薬を使う、音楽や好きなTVを見聞きする、本を読むなど気を紛らわして努力している。何故なら、自傷をしても何もいいことはないことがわかったから。
日常を持つこと
衝動的な自傷行為をしそうになり主治医に電話して助言をもらうと「人の中にいた方がいい。ド〇ールとか」そう言われ、小説や日記帳、Bluetoothのキーボードやらを持ってド〇ールへ。バッグから小説を選び、その場を凌いだ。そんな中、メル〇リは売れるし趣味の仲間からメールが届く。
日常を持っていると日常が私を助けてくれる存在となり、日常にまぎれることで日常へ戻れると知った。そして、ピンチになった時忙しい中でも助言をもらえて感謝した。しかし主治医よ、なぜド〇ール?
幸せの痕
親戚の家に子猫がやってきた。くるりと反り返った耳をした子猫は膝に収まるほど小さい。可愛い!!先日、再び会いに行ってきた。赤ちゃんだった子猫は、元気に跳ね回るおてんば娘になっていた。私の腕に甘噛みして戯れ、小さな歯が両腕に大量のミミズ腫れを作った。施設の仲間は「自傷だ!」と笑った。
なるほど自傷か。新鮮だった。孤独に耐えきれず作った消えない自傷跡は自分のことを嫌いにさせる。だが、今腕にある傷は子猫と楽しく遊んだ証拠。子猫に愛された証だった。
桜の樹の下で
私にも悲しい別れがある。一人は、駆け出しの私に死にたいと訴えて、常に刃を向けられているようで、それは辛かった。ところが彼女は生きる道を見出したその矢先、不慮の事故に遭遇して亡くなった。
もう一人は、若い頃から患った経験から、社会の居場所の必要性を訴えて今の礎を築いた。摂食障害が落ち着いた後、今度は身体の難病を発症して帰らぬ人となった。二人は奇遇にも同じ墓地の桜の樹の下に眠っている。
闘病の最中、二人は幾度となくこの三途の川のほとりを訪れたろう。しかし誰かに何かを諭されて、元来た道を引き返したに違いない。今はもう、訪ねてくる後輩の話を聞く『番人』だが、「今来る所じゃない」とこちらに追い返してくれているようだ。
大勢戻されてくるから、とても頑張っている。彼女らもどんなにか褒められたかろうと思う。でも後輩らは戻せても、彼女ら自身が戻ってくることはない。三途の川は、それほど現世を遠く深く隔てている。
人間関係の多くは面倒で煩わしい。しかしそれを越える何かがあると知っているから、どれほど煩わしく、何度失敗しても、やはり私たちは人に会いたくなる。現世に在ることは、人と居ることはこんなに尊い。(支援者)
私の伴奏者
私はうつ病を持っています。もう18年も、です。そんな私の最大の敵は罪悪感マンです。遊んでいても仕事していても『こんなことやっている場合じゃない、他にするべきことがあるだろう』と心にいつも言ってくるのです。
あまりに近くに居すぎて、離れられなくて、私にはもう、コイツが敵か味方かわかりません。でも周りの人達に「敵ではないらしい」と教えられてコイツと付き合って生きていく練習をしています。
報われる時
私は虐待家庭で育った。父に引き取られ、知らない人が母になり、私は異物として扱われた。「家族」にさせて貰えなかったし、努力してもなれなかった。だから今でも、どんなに大切な人も信じられないと感じてとても怖い。きっといつか何かで裏切られる、と。友達にも、家族にも。愛する人にも。
それでも信じたい気持ちはやめられない。みんなに大事にして欲しくて、大事にして欲しい分だけみんなを大事に扱ってしまう。そして期待の分だけ裏切られる。繰り返し。そんな形は歪んでいるかもしれない。でも無駄じゃない。受け取ってくれる人はいて、「そんな私と一緒にいてくれる人」という形になって、必ず報われる時が来る。今だってそばにいる。
高校生になりたかった
過食症になって3年。現在高校3年生の私には、「過食症」というお友達がいる。かれこれ3年も共にしているので親友と言っても過言ではない。10代の後半から地獄の日々を過ごしてきた。不登校、高校編入、家族との別居、強制入院、祖父母との絶縁。気付けば身近な人の影がなくなって一人になっていた。笑うことが出来なくなって、人としての感情すらもなくなって生きている心地がしなかった。お金も食に費やした。悪い事も全て「私が生きているからこうなったんだ」と責めた。友達と笑いあっている同じ高校生を見ると苦しかった。
でも今生きている。なんとか生きている。携帯の中に「ばれない死に方」とかたくさん調べているけれど、何とか生きている。頑張るのはもう疲れた。だから私は一日一日をとりあえず生きてみようと思う。
穴が開いている
ぽっかりとどこか穴が空いている感覚がある。何となく虚しくて、死にたいと思う。埋めたい所が空っぽで、減らしたい所がいっぱいいっぱいで。どうしようも無い気持ちを薬で逃げて誤魔化す。本当なら沢山の綺麗な物で満たされているはずの器。でも私のは穴が空いていて中に入れてもどんどん出ていってしまう。もっと自信を張れる自分になれていたなら、この器に穴が空くことなんてなかったんだろうな。沢山の自信や肯定で埋まっていたんだろうな。周りからの愛情や評価をきちんと受け入れられる、穴のない器。そうはなれなかった自分と現実が苦しくて、穴の空いた器を抱えて、今日も「死にたい」を吐く。
被害者意識と自己愛性
ずっと罪悪感というものを勘違いしていた。自分が罪悪感と思ってきたものは、実際には被害者意識だったと今は思う。誰かを傷つけたことさえ、「そんなつもりじゃなかったのに」と真っ先に傷つくことで、自分を傷つけたのは相手だ、と内心で責めていたのだと思う。
強い被害者意識は自己愛性パーソナリティ障害の特徴の一つだ。摂食障害が長引く要因でもある。どちらも、自分の問題を自分のものとして受けとめるところからやっていくしかないと思っている。
40歳になって知ったこと
昨年初めてがん告知に関する問診票を書きました。生きていく上で迫られる大きな決断や選択がどれほどあるか、それを40歳になるまで知らずに済んだのは何とおめでたいことだったか、自分の見ている世界は何て狭かったのか思い知らされました。
病気は自分次第で何とかなると思ったり、それを人に押し付けたりしていなかったか思い返し反省もしました。自分の経験を離れた想像力を持ちたいと思った出来事でもありました。