特集「見えてる?聞こえてる?」
幻聴とは実在しない人の声が聞こえること。統合失調症の症状とよく言われますが、他にも解離性障害や高齢者の認知症でも起こります。また脳梗塞や脳外傷などの脳に損傷を受ける病気でも生じることがあります。
しかしストレス過剰になると、誰でも起こりうるとも。それだけストレスと脳と症状は関係が深いのです。
高校生の時、いじめが原因で発症しました。この病気とは16年付き合っています。入退院も8回あります。幻聴も耳元で言われて、寝てても起こされます。「殺す」「死ね」って言われて恐怖です。その恐怖で死にたくなって、リスカ、ODは当たり前にやってました。
私は元気ないのに、幻聴は元気があってよろしいようです。
でも今回でリスカ、ODを卒業したい。
きっかけは同じ仲間に会えて、話できたことが大きいです。
同じ思いを体験していてわかってくれる人がいるだけで、私の気持ちはちょっと違います。
私はある事をきっかけに、幻聴が聞こえるようになってしまった。そのきっかけとは、誰かの悪戯による、夜中の玄関のドアのノック音、そしてドアチャイムだった。その悪質な悪戯は暫く続き、私は毎晩脅え、身構え、眠れぬ日々が続いた。
その後警察に見廻りを強化してもらった結果、その悪戯は収まったのだが、いつからか私は、眠りにつくかつかない頃おいに、ドアのノック音が耳にダイレクトに聞こえるようになってしまったのである。
その時の衝撃と恐怖心は尋常じゃなく、これは明らかに幻聴だと確信した。しかし時を経て今は、幻聴が聞こえても、自身の不調のバロメーターなのだと冷静に対処出来るようになり、症状と向き合う事の大切さを学んだ。
桜の樹の下で
私にも悲しい別れがある。一人は、駆け出しの私に死にたいと訴えて、常に刃を向けられているようで、それは辛かった。ところが彼女は生きる道を見出したその矢先、不慮の事故に遭遇して亡くなった。
もう一人は、若い頃から患った経験から、社会の居場所の必要性を訴えて今の礎を築いた。摂食障害が落ち着いた後、今度は身体の難病を発症して帰らぬ人となった。二人は奇遇にも同じ墓地の桜の樹の下に眠っている。
闘病の最中、二人は幾度となくこの三途の川のほとりを訪れたろう。しかし誰かに何かを諭されて、元来た道を引き返したに違いない。今はもう、訪ねてくる後輩の話を聞く『番人』だが、「今来る所じゃない」とこちらに追い返してくれているようだ。
大勢戻されてくるから、とても頑張っている。彼女らもどんなにか褒められたかろうと思う。でも後輩らは戻せても、彼女ら自身が戻ってくることはない。三途の川は、それほど現世を遠く深く隔てている。
人間関係の多くは面倒で煩わしい。しかしそれを越える何かがあると知っているから、どれほど煩わしく、何度失敗しても、やはり私たちは人に会いたくなる。現世に在ることは、人と居ることはこんなに尊い。(支援者)
特集「今年一年を振り返って」
私は旅行で始まり旅行で終わる1年となった。諦めていたフランスにも行けて嬉しかった!そして、病気なら病気なりの対策をとって行けば、旅行も大丈夫と実感した。
旅行を通して思ったのは、自分自身のメンテナンスが大切という事。私の場合は、通院やお薬を飲み続けるなど毎日の積み重ねが基本です。この1年、見守って下さった先生方、家族、友達に感謝。12月には栃木県の「イチゴ狩り」が待っている。ワクワク・ドキドキ!
「がむしゃらに成長した年」
今年一年を振り返るとこんな言葉が思いついた。コロナという言葉は、介護施設の清掃員という職業柄、これといった変化が生活面でなかったので、あえて使わない。上司との衝突、プライベートで発見した自分の新しい一面。良い事も悪い事も差が激しかったが、それを乗り越えてきた。だから「がむしゃら」という言葉をつけた。ベストを尽くし、成長したと実感してる。来年も良い年に出来たらと思う。
今年は新しいことにチャレンジする1年になるはずだった。そう決めた自分の選択、未来に期待していた。コロナ禍は想定外だったが、それは皆同じなのでそのことを理由にはしたくない。何をやってもうまくいかなかった。出来ない自分を認めざるをえず、何も出来ないままチャレンジは失敗した。
今は自分を肯定的にみることが出来ないのでネガティブな気持ちでいっぱいだが、来年は運気が変わってほしいと切に願っている。
今年の初めに母が亡くなり、コロナが流行し、夏に祖母が亡くなり、その直後に娘が抜毛症になり、旦那と別居する(現在進行形)という怒涛な一年でした。
一難去ってまた十難くらいな勢いで、毎日色んな感情が目まぐるしく押し寄せてきて、でも、子ども達には心配かけさせたくないし、辛い顔しながら育児はしないように、私なりに仕事と育児と家事と、目の前にある事だけに集中して、日々希望を忘れずに、一生懸命頑張っています。
家族会と繋がり5ヵ月後、距離をとる必要性を知った私は、ボーダーの娘に行き先も告げず私の限界と2年後の再会を記し家を出た。娘に振り回された過酷な日々を思うと2年間は夢の世界!
遂に2年たち7月に再会。でもまた現実と向き合わなければ。娘は役所の人や友達に支えられ必死に生きてきたそうだ。自分を見つめ直しこれからの生き方を探し始めた。私は家を売却し新たな拠点で暮らす。お互いこれからが本番。離れられて良かった!
特集「新型コロナウイルス流行下で考えたこと」
躁鬱の最中にいた時は、コロナの影響は計り知れないものがあったと思う。鬱のど真ん中にいた時なら、自身のことでいっぱいいっぱいで、コロナは自分が死ぬチャンスとまで思っていただろう。
躁で地上100階にいた時なら逆に、「自分が世界を救う!」と豪語していたかもしれない。
今、回復途中にあって思うことは、生き続けることの「尊さ」であり、「責任」である。病と闘う中で、冷静な思考を持つことが少しは出来たのかもしれない。
パスタソースは買えたが麺は買えなかった。いつもと違うメーカーならあった。悩んだが、買わずに帰った。自粛による休業で、いつもの靴下も買えなかった。
知ってる味、毎日同じ商品を使うことで安心を買っていた。安心は代用が利かない。譲歩できるところはないか探して、パスタソースをご飯にかけてチーズを振った。断腸の思い。ギリギリ食べることができた。
靴下はどうしよう。これを機に新しい感触に挑戦!とは思えなかった。
どんな問題も時間が解決してくれることが多いと思う。でも、「すぐに解決したい」「この不安を抱えたままでいられない」と待つことが難しい。
その問題が家庭内での問題である場合、この自粛の中でテレワークや学校休校など家族が狭い家の中で過ごす、家の中が密になっている状況では非常に難しい。
毎日解決できない問題と嫌でも向き合わないといけない。リビングでお互い家事や仕事や勉強をせざる得ない、個室がない場合、距離をとるのが難しい。
夫が在宅勤務で朝昼晩の食事を作らなければならなくなった。でもただ今躁状態。家事がサクサク進む。やりたくなかった家事も出来てしまう。達成感の嵐だ。とても気分が良い。
家の中の掃除。苗をプランターに植え替える。手芸を始めたり、私はこのご時世の中、有意義な毎日を送れている。制限された中で出来る楽しみさがしが得意であります。
コロナの影響で依存症が進行する人が増えている。僕はアルコール依存で今は断酒に成功しているが、治療に繋がる前にこの状況を体験したら間違いなく連続飲酒になった筈だ。
世の中収入がなければ生活できない。その不安を緩和するために酒に走る。自業自得だがそれが依存症。
断酒できている人も失敗者が出てくる。感染防止のために自助会の例会が開けないからだ。例会は重要な治療の場。再飲酒は死に繋がる。早期終息を祈るばかりです。
あの頃に比べれば今はちょっとした不安にも動じない対策を講じれるようになったのかもしれない。
前職で人間関係に疲れた私は、今は在宅ワークを目指して日々勉強中。すっかり自粛生活を満喫。引きこもり生活は水を得た魚のようだ。
カフェミュージックのCDを借りて部屋で流し、コーヒーをいれて、お手製『自宅カフェ』でPCと向き合う日々。これを機に部屋の掃除にも本腰をいれる。今ある中で出来ることがあることを知った。
特集「生き残ったわたしたちのエピソード」
SANZというこのサイトが立ち上がって一年。
ここに立ち寄って、とりあえず渡るのを踏みとどまってくれた方がいてくれたら嬉しく思います。
娘はこの川のほとりのお茶屋さんの看板娘になるはずが、3年前に渡し船に乗って川を渡ってしまいました。
黒猫はみーこという名で娘が可愛がっていた猫です。この子はそれから1年後に娘のところに渡りました。
毎月一度、SANZの編集会議がありますが、ここでは娘と同じ苦しみを抱えた当事者や編集員の方、心理士の先生が参加して話し合いをしています。
私は最初からこの会に参加し、娘からは聞けなかった当事者の方の苦しみや体験談などを直接聞いたり、時には親の立場から思いを話したりしています。
初めは苦しくなることもありましたが、仲間たちに気づかされることも多く、まだまだ揺れることは多いものの、以前よりも気持ちが落ち着いてきているのを感じています。
ここでお茶でも飲みながら、色々なエピソードを読んで少しゆっくりしていって下さい。
本気で死にたいと思った。2度のODをした。結果死ねなかった。きっと神様がまだ生きていなさいと言ってくれたのだと悟った。世界は変わらないのだ。
俺が俺がで生きてきた僕は、追い詰められて自分の無力さを思い知った。そんな時巡り逢えた主治医に、心の傷を打ち明けられた。涙と共に、話すと楽になれる事を知った。
気持ちを分かってほしくて男や親を振り回した。でも、他人は常に自分の欲しい答えはくれない。それで大炎上。今は人を巻き込まず波が過ぎるのを待つ。
同級生の死から自死遺族の気持ちを理解した。希死念慮が収まらない時僕は頓服薬飲むようにして頓服と睡眠薬を飲むと眠気に襲われ気持ちが落ち着いた。
一秒先まで生きる一秒先まで生きる一秒先まで生きる。ずっとは続かない。ずっとは続かないから大丈夫。唱え続けて死にたいの嵐が過ぎるのを待つ。
特集「年末年始のエピソード」
日常が大きく変わる盆暮れ正月。記憶に残る年末年始の出来事を、当事者、支援者に聞きました。
昔は大晦日だけは0時までテレビOKとしていました。ホールで紅白歌合戦を患者さんと観るのも仕事の一つでした。時代が変わり、今は一人1台テレビ付きのベッドです。患者さんが観ているのはお笑いや格闘技。「時代だな~」と思いながら巡視していました。
親族が集まり子ども時代の話で盛り上がり、当時流行っていたスナック菓子の話になりました。某社エビ風味のスナック菓子のキャッチコピーが「やめられないとまらない」だったことを思い出しました。
身近なところに依存物質が潜んでいたと気づきました。うわっ!お酒飲めなくても危険なものってこの世にあるのね、と思ったウン十年後、まさか日本一のアルコール依存症の病院に異動になろうとは思わなかった。
今日、ご褒美にお手軽なエステで、被害妄想でこわばった顔をほぐしてもらってきました。そしたら、本物のヒアルロン酸が入ったドリンクのプレゼントが(笑)。飲んだら被害妄想なおるかなぁ(笑)。
(解説)治療に使う薬は、経口薬(飲んで服用する薬)以外にも、予防接種のような注射での治療方法があります。注射が有効なのは、直接血管に薬剤を入れるので、胃を通って消化して…という時間を短縮できること、また服薬忘れを避ける、月1回の注射で代用することの二つがあるのです。このエピソードは後者で、注射を「(美を維持する)ヒアルロン酸」と表現しています。
うまれて初めて妄想に苛まれ二階から落ちた。首はむち打ち、腰は骨が潰れた。寝込んで唸っていたら障害基礎年金打切の通知が来た。おまけで背骨に響く喉風邪を引き39℃の熱が出た。令和元年はこうして過ぎて行った。
統合失調症の俺、18歳からちょっとおかしいなと思い始め今は46歳になります。
正月と言えば平成16年1月1日、俺が生まれて初めて措置入院をした日、今でも忘れない、変な思い込みで近所の車のフロントガラスをゴルフクラブで割り、そのまま警察に連れられ精神病院へ、病院への移動中このまま警察に富士山の樹海にでも埋められてしまうのではないかとここでも悪い思い込みをしていました。
そういうわけで、過去にはとんでもない正月もありましたが、今ではライブに行ったり、テニスの試合に出たり、ドラムのレッスンに行ったり充実した時を過ごしています。大丈夫病気はきっと良くなりますよ。
特集「『精神科』に辿り着くまで」
どんな異変を感じて、どのようにして精神科に行くことになったのか。家族や友人、学校や職場の人、誰に相談したか。自分から行ったのか、誰かに連れて行ってもらったのか、連れて行かれたのか。行政機関や病院の他の科から紹介されたのか...。『精神科』に辿り着いた経緯について当事者、家族に聞きました。
数々の問題飲酒後に断酒を試みるが、試してみると?全く眠れない。手足は震え、目を閉じると眼球が痙攣。身の危険を感じて妻の探した精神科を受診。アルコール依存症と診断を受け入院。薬でようやく眠ることができた。
21歳の6月。最初の職場で人間関係と仕事があまりにもできないことに悩み、何回も自殺未遂を繰り返して、母親に精神科につれていかれたのがきっかけです。
娘が16歳の時、ある夜突然「苦しくて消えたくてどうしたらいいかわからない。楽になりたいから精神科へ行きたい。」と言った。ネットで調べて何となく良さそうな精神科を初めて受診したが、以来6人医師を変えた。
20歳春。強烈な希死念慮に襲われ、このままでは自分に殺されると恐怖を感じ、精神科クリニックを探し受診。初診を終えてから両親に報告。3年後、別のクリニックで双極性障害の可能性を指摘された。
亡くなった叔父が精神科に通っていたため、ずっと受診しなかった。精神科に行ったら人生終わると思っていた。しかし学校を退学すると引きこもり、周囲が困り受診へ。私は「人生終わりでいい」と思い、精神科に行った。とっくに限界を超えていた。
スクールカウンセラーに友達の相談をしていたはずがいつの間にか自分の相談になっていた。一気に痩せた私に摂食障害の疑いがあると担任に伝わり親にも警告が出たらしい。中1の秋に心療内科へ入院、退院後精神科へ。