特集「今年一年を振り返って」
私は旅行で始まり旅行で終わる1年となった。諦めていたフランスにも行けて嬉しかった!そして、病気なら病気なりの対策をとって行けば、旅行も大丈夫と実感した。
旅行を通して思ったのは、自分自身のメンテナンスが大切という事。私の場合は、通院やお薬を飲み続けるなど毎日の積み重ねが基本です。この1年、見守って下さった先生方、家族、友達に感謝。12月には栃木県の「イチゴ狩り」が待っている。ワクワク・ドキドキ!
「がむしゃらに成長した年」
今年一年を振り返るとこんな言葉が思いついた。コロナという言葉は、介護施設の清掃員という職業柄、これといった変化が生活面でなかったので、あえて使わない。上司との衝突、プライベートで発見した自分の新しい一面。良い事も悪い事も差が激しかったが、それを乗り越えてきた。だから「がむしゃら」という言葉をつけた。ベストを尽くし、成長したと実感してる。来年も良い年に出来たらと思う。
今年は新しいことにチャレンジする1年になるはずだった。そう決めた自分の選択、未来に期待していた。コロナ禍は想定外だったが、それは皆同じなのでそのことを理由にはしたくない。何をやってもうまくいかなかった。出来ない自分を認めざるをえず、何も出来ないままチャレンジは失敗した。
今は自分を肯定的にみることが出来ないのでネガティブな気持ちでいっぱいだが、来年は運気が変わってほしいと切に願っている。
今年の初めに母が亡くなり、コロナが流行し、夏に祖母が亡くなり、その直後に娘が抜毛症になり、旦那と別居する(現在進行形)という怒涛な一年でした。
一難去ってまた十難くらいな勢いで、毎日色んな感情が目まぐるしく押し寄せてきて、でも、子ども達には心配かけさせたくないし、辛い顔しながら育児はしないように、私なりに仕事と育児と家事と、目の前にある事だけに集中して、日々希望を忘れずに、一生懸命頑張っています。
家族会と繋がり5ヵ月後、距離をとる必要性を知った私は、ボーダーの娘に行き先も告げず私の限界と2年後の再会を記し家を出た。娘に振り回された過酷な日々を思うと2年間は夢の世界!
遂に2年たち7月に再会。でもまた現実と向き合わなければ。娘は役所の人や友達に支えられ必死に生きてきたそうだ。自分を見つめ直しこれからの生き方を探し始めた。私は家を売却し新たな拠点で暮らす。お互いこれからが本番。離れられて良かった!
過去と向き合う強さをください
ずっと過去は変えられないと思っていたが、それは違うのかもしれない。生き別れた母の所在を戸籍を使って調べた。役所を渡り歩き、私の本籍地から母の所在の他に、縁を切った母方の家族の現在の状況まで分かった。
縁を切っても書類上は家族と証明されたことで、私の心に変化が起きた。過去は変えられないが、過去の見方は変えられる。ただ劣化していくだけだと思っていた過去のしこりは風化に向けて動き出した。今でも難しさはある。それでも何十年と時を経て、私は過去と向き合っている。
衝動を越えて
あんなにも、死にたかったのに。あんなにも、過食嘔吐を止められなかったのに。でも私は今、こうして確かに生きている。そして危ういながらも、平和な日常を送っている。
何故?なにゆえ、私の激しい衝動は治ったのか。これといったきっかけは特にない。もちろん紆余曲折はあったし、今も100%衝動が治ったとは言えない。ただ、私はあきらめなくなった。ひたすら生き続け、一心に歩み続けることに。衝動のベクトルをそこに向けようと心掛けることに。
私がどうにかなりそうな時の対処法
まずは安心安全な所に電話で話を聞いてもらう事を考えます。電話できそうな所を事前にリストアップしておいた時期もありました。最近この安心安全というのに心を配っています。身近な家族や彼に相談した事で更に傷ついてしまったという事があったからです。
電話の時間もずっと話してもらえるわけでないので、次は何かを食べてお腹一杯にして眠気を誘うという事や、頓服薬を飲んで横になり携帯をいじり辛い感情を一時的にシャットアウトします。そのうちに薬の効いてくるの待ちます。待ってる時間は長く感じるものだと思います(涙)。
幸せは来世に
私の家庭はどこかおかしい…そう幼い頃に気付いてから、26歳になる今まで、割と生きることが地獄だった。いつか一般人のように幸せに…と欲を出して色々やってみるものの、大抵うまく行かない。
けれどつい最近、お告げがあった。「現世は仕方ない。残念。だから来世はめっちゃくちゃ幸せになる」と。そう。現世はもういいのだ。私が生きる場所は来世。来世が私の本当のステージ。私は来世で輝くのだ。現世は、そう、束の間の悪夢。だから毎日眠る前に自分に言い聞かせる。これは全て夢だよ、と。
人は見た目が100%??
「こんな顔だったら生まれてきたくなかった。」25歳の娘は大学2年生になった頃、整形したいと泣き叫んでいました。成人して自分のお金でするならどうぞと言ってきましたが、結局お金は貯められず、親から借金をして整形を始めました。
11歳で拒食になった時は転校が決まっていて、第一印象が大事だからと、ダイエットから始まりました。18歳で再び痩せた時には、痩せても可愛くなれなかったと言っていました。整形はしても今、満足していません。人は見た目ではないとわかる日が来て欲しいと願うばかりです。
苦しいのは最初の一年
酒と決別しなければならない事を知った時、押し潰されるような不安に襲われました。恐怖に近い感覚でした。なぜならその当時の僕にとって、酒は荒んだ心を癒してくれる一番の存在であり、生きていくために欠かせない物となってしまっていたからです。
不安と恐怖と絶望に負けて何度も何度も断酒に失敗しました。この感情が死ぬまで続くのならいっそ呑んでしまえと思う訳です。断酒できてる今なら解ります。苦しいのは最初の一年。それを過ぎればうんと楽になる。そう教えてくれたのは自助会でした。
負けても大丈夫
私の基準はいつも「負けたくない」。「勝ちたい」のではなく、「負けたくない」のだ。もちろん勝ち負けの基準はあいまいで終わりなんてない。常に何かと闘い続けて身も心もボロボロになるし、逃げたくても逃げられず(逃げようとせず)、疲れ果てていた。
そしてある日突然力尽きて…なのか、救いの手…なのか、「負け」がやって来た。
「負けた」とは認めたくなくて、もがきもしたけど、私は私のまま。負けたら私じゃなくなるような気がしていたけど、実際は何も変わらなかった。
負けても大丈夫。いや、負けてからの方が生きやすくなったような気がする。
来世で逢えても
Uさんのお墓参りをする度に私達三人は色々なお喋りをする。今はUさんのお母さんもお墓の中だ。お父さんはUさんの思い出を、私達は娘のその後の話をする。長い年月のうちに中身は少しずつ変わってきた。お父さんはお母さんとの最期に、また次も一緒になろうねと約束したそうだ。
皆に慕われたUさんはきっとまた何処かに生まれるだろう。そして、以前より成長した多くの私達と出会って、きっとまた何かを始めるに違いない。でも何より今度はずっと居てほしい。本当はそれしか願わない。
とりあえずコーヒー
私は一日コーヒーを6~8杯飲みます。
コーヒーは私の薬みたいな物です。余裕の無い時はインスタント。少し大丈夫な時はドリップ。逆にとことん落ち込み、鬱の時はミルで豆を挽いて淹れます。
自分だけの為に淹れるコーヒーは別格に美味しい。つまり自分だけの為がポイントです。コーヒーは私にとって、手当てと同じです。
特集「新型コロナウイルス流行下で考えたこと」
躁鬱の最中にいた時は、コロナの影響は計り知れないものがあったと思う。鬱のど真ん中にいた時なら、自身のことでいっぱいいっぱいで、コロナは自分が死ぬチャンスとまで思っていただろう。
躁で地上100階にいた時なら逆に、「自分が世界を救う!」と豪語していたかもしれない。
今、回復途中にあって思うことは、生き続けることの「尊さ」であり、「責任」である。病と闘う中で、冷静な思考を持つことが少しは出来たのかもしれない。
パスタソースは買えたが麺は買えなかった。いつもと違うメーカーならあった。悩んだが、買わずに帰った。自粛による休業で、いつもの靴下も買えなかった。
知ってる味、毎日同じ商品を使うことで安心を買っていた。安心は代用が利かない。譲歩できるところはないか探して、パスタソースをご飯にかけてチーズを振った。断腸の思い。ギリギリ食べることができた。
靴下はどうしよう。これを機に新しい感触に挑戦!とは思えなかった。
どんな問題も時間が解決してくれることが多いと思う。でも、「すぐに解決したい」「この不安を抱えたままでいられない」と待つことが難しい。
その問題が家庭内での問題である場合、この自粛の中でテレワークや学校休校など家族が狭い家の中で過ごす、家の中が密になっている状況では非常に難しい。
毎日解決できない問題と嫌でも向き合わないといけない。リビングでお互い家事や仕事や勉強をせざる得ない、個室がない場合、距離をとるのが難しい。
夫が在宅勤務で朝昼晩の食事を作らなければならなくなった。でもただ今躁状態。家事がサクサク進む。やりたくなかった家事も出来てしまう。達成感の嵐だ。とても気分が良い。
家の中の掃除。苗をプランターに植え替える。手芸を始めたり、私はこのご時世の中、有意義な毎日を送れている。制限された中で出来る楽しみさがしが得意であります。
コロナの影響で依存症が進行する人が増えている。僕はアルコール依存で今は断酒に成功しているが、治療に繋がる前にこの状況を体験したら間違いなく連続飲酒になった筈だ。
世の中収入がなければ生活できない。その不安を緩和するために酒に走る。自業自得だがそれが依存症。
断酒できている人も失敗者が出てくる。感染防止のために自助会の例会が開けないからだ。例会は重要な治療の場。再飲酒は死に繋がる。早期終息を祈るばかりです。
あの頃に比べれば今はちょっとした不安にも動じない対策を講じれるようになったのかもしれない。
前職で人間関係に疲れた私は、今は在宅ワークを目指して日々勉強中。すっかり自粛生活を満喫。引きこもり生活は水を得た魚のようだ。
カフェミュージックのCDを借りて部屋で流し、コーヒーをいれて、お手製『自宅カフェ』でPCと向き合う日々。これを機に部屋の掃除にも本腰をいれる。今ある中で出来ることがあることを知った。
復讐
私の中学時代は青春の欠片もなく、3年間全学年の男子から壮絶ないじめを受けていた。「キモい」、「バイ菌」呼ばわりは当たり前で、背後から蹴られたり、唾を吐きかけられるのも日常茶飯事だったが、これらは序章に過ぎなく、筆舌に尽くしがたい経験だった。
大人になり、躁状態に転換した私は、中学時代とはまるで別人のように男を漁り、モテ遊ぶ事を快楽としていた。今思えば、私はきっと、男に負けまいと、見返してやりたいと必死だったのだろう。これは私の復讐劇だったのかもしれない。
体力が落ちて
精神的にヘロヘロになり引きこもっていたら、体力的にもヘロヘロになりました。立っていてバランスがうまくとれなかったり、指先に力が入らなかったり……。主治医に相談しました。最近調子が悪く、飲み物をこぼしたり皿を割ったりしています、と。
「それは自分で皿を割っているということですか?」
主治医はすごい剣幕でした。「いえ、力が入らなくてツルッとすべって皿が落ちて、というのを繰り返していて」「ああそういうことですか」ホッとした様子でした。今まで主治医に過酷な心配をさせてきたことをしみじみ思い知った一件でした。
特集「生き残ったわたしたちのエピソード」
SANZというこのサイトが立ち上がって一年。
ここに立ち寄って、とりあえず渡るのを踏みとどまってくれた方がいてくれたら嬉しく思います。
娘はこの川のほとりのお茶屋さんの看板娘になるはずが、3年前に渡し船に乗って川を渡ってしまいました。
黒猫はみーこという名で娘が可愛がっていた猫です。この子はそれから1年後に娘のところに渡りました。
毎月一度、SANZの編集会議がありますが、ここでは娘と同じ苦しみを抱えた当事者や編集員の方、心理士の先生が参加して話し合いをしています。
私は最初からこの会に参加し、娘からは聞けなかった当事者の方の苦しみや体験談などを直接聞いたり、時には親の立場から思いを話したりしています。
初めは苦しくなることもありましたが、仲間たちに気づかされることも多く、まだまだ揺れることは多いものの、以前よりも気持ちが落ち着いてきているのを感じています。
ここでお茶でも飲みながら、色々なエピソードを読んで少しゆっくりしていって下さい。
本気で死にたいと思った。2度のODをした。結果死ねなかった。きっと神様がまだ生きていなさいと言ってくれたのだと悟った。世界は変わらないのだ。
俺が俺がで生きてきた僕は、追い詰められて自分の無力さを思い知った。そんな時巡り逢えた主治医に、心の傷を打ち明けられた。涙と共に、話すと楽になれる事を知った。
気持ちを分かってほしくて男や親を振り回した。でも、他人は常に自分の欲しい答えはくれない。それで大炎上。今は人を巻き込まず波が過ぎるのを待つ。
同級生の死から自死遺族の気持ちを理解した。希死念慮が収まらない時僕は頓服薬飲むようにして頓服と睡眠薬を飲むと眠気に襲われ気持ちが落ち着いた。
一秒先まで生きる一秒先まで生きる一秒先まで生きる。ずっとは続かない。ずっとは続かないから大丈夫。唱え続けて死にたいの嵐が過ぎるのを待つ。
入院作法のススメ
診察中に具合が悪くなり帰れる状態でもなく医師から入院を勧められた。今まで診察中に意識をなくして医療保護入院になったり散々やらかしてきた私は今までの愚行を反省し、家族に電話し、医師にも協力してもらいながら現状説明と入院の許可を得た。
「申し訳ないですが入院させてもらっても良いでしょうか?着替えだけ届けてもらえると助かります」との電話の後に、車椅子のまま自分で入院申込書などの書類を書いた。“病気があってもやれることをする”、自分が人として在る為に必要なことである。
いい子ずるい子
痩せることで、親や学校、社会に無言で要求していた。あれをしてほしい。これはされたくない。自分の口で言うことはなかった。嫌われたくなかったし、発言することの責任を負えないから。その分、食べるものを減らした。色んなものを人質に取っていた。貴方との関係性。自分の命。私が思い詰めたらどんな風に壊れると思う?
周りは怖くて言いなりになるしかなかっただろう。「摂食障害になる子はいい子が多い」と昔は言っていたらしい。残念ながらそれは幻想だ。少なくとも私はいい子ではなかった。本当にいい子だったら、ちゃんと自分の口で言えたのだ。「私をデブって言わないで」と。
お守り
娘の枕の下に薄いカミソリを見つけたとき、ショックと驚きで全身が硬直した。
どうしたらよいかわからなくて、相談室に駆け込んだ。
カウンセラーの先生は落ち着いて「それはお守りみたいなものなんだよ。」と言う。
最初は意味がよくわからなかったが、自分自身に「お守り お守り」と言い聞かせ、娘の前では知らないふりをして普通にふるまった。
とにかく、想定外のことばかりで、その度にハラハラドキドキしていたが、だんだん慣らされていった。
自己肯定感ってなきゃダメなの?
私には自己肯定感などない。自己肯定感があれば、そもそも病気になっていないだろう。自己否定の毎日じゃ安全に過ごすことはできないため、私はダメな自分をそのまま受容している。
「ダメな自分でもいいじゃないか、自傷しなかったし」と禅問答を繰り返し、自分と折り合いをつけている。 時にはノートに感情を書くことで俯瞰して眺めて、感情を置いている。
今さら自己肯定感を高めようと何かで埋めようとしても埋められない。「自己肯定感のない自分を受け入れる」、それは等身大の自分を謙虚に生きることだと思っている。
特集「年末年始のエピソード」
日常が大きく変わる盆暮れ正月。記憶に残る年末年始の出来事を、当事者、支援者に聞きました。
昔は大晦日だけは0時までテレビOKとしていました。ホールで紅白歌合戦を患者さんと観るのも仕事の一つでした。時代が変わり、今は一人1台テレビ付きのベッドです。患者さんが観ているのはお笑いや格闘技。「時代だな~」と思いながら巡視していました。
親族が集まり子ども時代の話で盛り上がり、当時流行っていたスナック菓子の話になりました。某社エビ風味のスナック菓子のキャッチコピーが「やめられないとまらない」だったことを思い出しました。
身近なところに依存物質が潜んでいたと気づきました。うわっ!お酒飲めなくても危険なものってこの世にあるのね、と思ったウン十年後、まさか日本一のアルコール依存症の病院に異動になろうとは思わなかった。
今日、ご褒美にお手軽なエステで、被害妄想でこわばった顔をほぐしてもらってきました。そしたら、本物のヒアルロン酸が入ったドリンクのプレゼントが(笑)。飲んだら被害妄想なおるかなぁ(笑)。
(解説)治療に使う薬は、経口薬(飲んで服用する薬)以外にも、予防接種のような注射での治療方法があります。注射が有効なのは、直接血管に薬剤を入れるので、胃を通って消化して…という時間を短縮できること、また服薬忘れを避ける、月1回の注射で代用することの二つがあるのです。このエピソードは後者で、注射を「(美を維持する)ヒアルロン酸」と表現しています。
うまれて初めて妄想に苛まれ二階から落ちた。首はむち打ち、腰は骨が潰れた。寝込んで唸っていたら障害基礎年金打切の通知が来た。おまけで背骨に響く喉風邪を引き39℃の熱が出た。令和元年はこうして過ぎて行った。
統合失調症の俺、18歳からちょっとおかしいなと思い始め今は46歳になります。
正月と言えば平成16年1月1日、俺が生まれて初めて措置入院をした日、今でも忘れない、変な思い込みで近所の車のフロントガラスをゴルフクラブで割り、そのまま警察に連れられ精神病院へ、病院への移動中このまま警察に富士山の樹海にでも埋められてしまうのではないかとここでも悪い思い込みをしていました。
そういうわけで、過去にはとんでもない正月もありましたが、今ではライブに行ったり、テニスの試合に出たり、ドラムのレッスンに行ったり充実した時を過ごしています。大丈夫病気はきっと良くなりますよ。